無価値の価値化

どんなにいいアイディアでも、頭の中から出ない限り無価値。どんなにくだらないアイディアでも、文章化さえしてしまえば価値といえる。そんなふうに思って始めたブログ。

"美"とは

先日、京都に旅行に行ってきた。

紅葉が寺や神社を彩り、ただただ息を呑むような体験だった。

そこで私は何度も「美しい」と思った。そしてなぜ自分が「美しい」と思ったのかを自分なりに考えてみた。

そしてその2日間の京都旅行で出た暫定的な答えは

"美しさ"とは意図せず湧き出てくる感情ではなく、対象物との間に生まれる「関係性」である

ということだ。そしてこの関係性はただの関係性ではなく、

相手を道具や物として見ず、「個」として尊重する関係性

であるということだ。

そして"美しさ"の特徴は

自分の意識に対象と鑑賞者しか存在しなくなる

ことではないだろうか。

この結論について具体的に説明してみる。

(先に断っておくが私はマナーの話をしているわけでもないし、観賞者の"資格"の話をしているわけでもない。だれでも自由に観賞してもいいし、これから指摘する行為は何らマナーに違反していると指摘しているわけではないのでそこは注意して欲しい。)

 

まず、京都で私は周囲の態度に違和感を感じた。

例えば、"自分ときれいな背景"を撮影することに固執し、満足する写真が撮れた途端その場から離れて違う"きれいな背景"を探しに行ってしまう観光客。

レンズ越しにしか対象を見ず、撮れた写真を満足気に見ながら立ち去ってゆくカメラマン。

この者達は、少々きつい言い方になってしまうが、対象の寺や神社を自分を映えさせるための"道具"や、きれいな写真をとるための"物"でしかないように思えた。

私が思うに、本当に"美しい"と感じていたら、ただただ感動に浸ることしかできないのではないだろうか。

そして写真を撮るに至るとしても、やっとの思いで「写真を撮らせてい頂く」くらいの気持ちになるのではないだろうか。

このため私はどうも上の者たちが"美しい"と感じていたのかが疑問に思えてしまった。

実際私もカメラでお寺などを撮ろうと思った時、「どのアングルが一番綺麗に見えるか」や「どういうフレームで撮ろうか」などに頭が回ってしまい、「何を見ているのか」が完全に頭から離れていたのに気付いた。

カメラ越しに見ている限り、対象は"被写体"でしかなく、"個"として扱われることはないのだと思う。

そして"物"とみなさず"個"としてみなした時に初めて、"美"を感じられるのではないだろうか。

 

次に、これは京都旅行から帰ってきて気付いたのだが、"美しい"と感じている間は自分の意識には自分とその対象しか存在しなくなり、周囲の人間が完全に排除されると感じた。

そして友人や恋人と観光に訪れるとその"状態"へ入り込みにくくなり、結果的に"美しい"と思うことが減って、対象がその友人や恋人と共体験をしているかの確認の"道具"に成り下がってしまう。

「綺麗だね」「うん、綺麗だね」とまるで一体感を演出する魔法の言葉であるかのように。

これは私が別の旅行で友人と観光に周った時に気付いた。

"美しい"と感じた瞬間、私の感覚ではその場に自分とその対象物しか存在せず、周りの友人が完璧に認識の外に追いやられたのだった。

 

これらのことがあって私は、"美しさ"とは対象物を"個"として尊重する関係性のことを指すのではないかという思いに至った。

"美しさ"とは人間関係と似ていて、友人を人として思いやる気持ちや恩師を人として尊重する気持ちと同様、対象物を"個"として"人間的"に扱うことなのだ。

それは逆に、ストレスを感じていたり、疲労している時に友人や家族を"道具"のように扱ったり邪魔"物"として扱ったり、疲労がたまると対象物が徐々に"物"にしか見えなくなるのとも似ている。

人を"人間的"に扱うためには自分にその気がなければいけないのと同じように、対象を"美しい"と思うためには自分にその気がなければいけないのだ。

だから学校に強制されて来る修学旅行生が対象を"観光スポット"として楽しむのに留まるのだ。

 

最後に何度も言うようだが、美しいと感じるのは完全に個人の自由であり、私は鑑賞者たるものはこうでなければいけないと謳っているわけでもないし、私が指摘した人たちの中に読者が該当していたとしても、私が傷つけるために言っているわけではないことだけは理解いただきたい。

 

この答えは暫定的でしかないのでいつまた自分の中で更新されるかわからない。また新たな発見があればここに書こうと思う。

 

ではまた。